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第26回ナニワグループ勉強会及び進捗発表会

 

こんにちは!!

 

先日お花見の様子をお伝えしたばかりですが

あっという間に夏模様になってきましたね。

みなさま、夏風邪にはお気を付け下さいね(^O^)

 

 

さて今回は5月28日(日)に豊川コミュニティセンターで行われました

第26回ナニワグループ勉強会及び進捗発表会の様子を

お伝えしたいと思います。

 

 

 

 

まず、社長からの挨拶にはじまり、

 

 

 

 

各会社の進捗状況の発表がありました。

 

       

↑ナニワグループ                                                   ↑ナニワグループ(経理部)

 

            

↑ナニワグループ(総務部)                               ↑ナニワグループ(技術部)

 

                          

↑大阪誠建                            ↑浪速建資産業               

 

                   

↑ナニワ生コン本社工場                    ↑ナニワ生コン尼崎工場 

         

      

↑ワールド                              ↑司コンクリート

 

↑おぼや

 

発表されました皆様、ありがとうございました。

お疲れ様でした!

 

 

 

 

 

 

そして、今回初参加の4名の方の紹介がありました。

一言ずつ挨拶して頂きました。

今後ともよろしくお願い致します!!

 

 

 

 

そしていよいよお昼ご飯♪

 

毎年恒例のおぼやのお弁当を頂きました\(^o^)/

今回もとってもおいしいお弁当でした!ごちそうさまでした♪

    

 

 

 

 

 

 

最後に社長、タナベ経営様からのコメントと

     

 

主催者からのコメントで

第26回ナニワグループ勉強会及び進捗発表会は幕を閉じました(^O^)

 

 

準備して頂いた皆様、ありがとうございました。

本当にお疲れ様でした☆

 

 

 

 

 

 

2017.05.28

こころあたたまるエッセイ -『人生のたとえ99%が不幸だとしても、最後の1%が幸せならば、その人生は幸せなものに変わる』この言葉に私は人生を賭けた

 

 

こんにちは^^

 

今回はエッセイをご紹介したいと思います。

 

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「ありがとう」と言って旅立った父

 

私は看護福祉士です。「看取り」という道を志したとき看護師になるか看護福祉士になるか

とても迷いました。散々悩んだ末、私が出した結論は看護福祉士という道でした。

それはどうしてか。

 

その一つは、私の心の中にある私の手を握って旅立った父の存在です。

父は、余命3ヶ月の告知を受け、病院から自宅に帰ることを希望しました。

 

毎日学校から帰ると父がいてくれる。それが幼い私には何よりの喜びでした。

その日もタンポポの花をいっぱい摘んで家に走って帰りました。

玄関を開けるとたくさんの靴が並んでいます。

父の寝室には、親戚の人たちやお医者さん、看護師さんが布団の周りに座っています。

 

父は、私が帰るのを待っていたかのように、ゆっくりと一人ひとりに「ありがとうございます」

とお礼を述べ、最後に私の手を握り、「ありがとう、くんちゃん」

と言いながら静かに目を閉じました。

手を離すとどこかに行ってしまうと思い、私は父の手を離すことが出来ませんでした。

 

父の手は冷たさを増し、次第に石のように固くなっていきました。母はゆっくり1本ずつ私の手から父の指を

はなしてくれ、私を抱きながら言いました。

「もう、いいよね?」

でも、私は母を振り払い、父の眠る布団の上に腹這いになり泣きつづけました。

このとき、母が私を引き離していたら、きっと今の私はありません。

涙ってこんなに出るものかと思うほどに泣き続けました。

 

「最後は素手でいのちを受け止めたい」

 

もう一つは私が小さい頃、小児ぜんそくで死にかけたときの事です。

ある寒い夜、いつものように発作を起こし私に両親が往診の先生を呼んでくれました。

ふと気がつくと二間も離れた玄関先で往診の先生と父の話すこんな声が聞こえました。

「娘さん、今夜がヤマです。お大事に」

父は深々と頭を下げて「ありがとうございます」とお礼を述べています。

ふと、目を下にやると母が私を抱いて「くんちゃん、この腕の中で・・・」

と言いながら、大粒の涙を流しているのです。

私は天井の高いところから母に懸命に声をかけました。

「お母さん、苦しくないよ。私は大丈夫だよ」

ところがその声が母に聞こえないのです。翌朝目が覚めると私は母の腕の中にいました。

以前、講演でご一緒した京都大学のカール・ベッカー先生が、

「柴田さんが体験したのは幽体離脱というものです。

昔なら、そういう話をおじいちゃんやおばちゃんが子供たちに伝えていました。

今は核家族になり、伝える人がいません。だからみんな死ぬのが怖いと思うようになってしまったのです。

あなたの体験を一人でも多くの人に伝えなさい」と言って私を励ましてくださいました。

今、私がやっている旅立つ人を抱きしめて送るという作法、これを教えてくれたのは母でした。

この二つの原体験を胸に、「最後は治療ではなく素手でいのちを受け止めたい」、

そう思って介護福祉士の道を選んだのです。

 

逝く者にも送る者にも愛が与えられる瞬間

看取りの側にいたいと願うようになったのは今から20年前です。

かなり高額な有料老人ホームでの話です。

そこは80人の入所者さんがいました。夜はどうしても見回りが必要な介護度の高い方が4人いまして、

その方々は静養室にいます。夜間はその方々を一人の寮母が診ます。

ある日の夜、ナースコールがなりました。部屋に駆けつけると「呼吸が苦しい」と言うのです。

私は看護師に連絡を入れました。看護師は病室に来ることもせずに、「隣の併設病院に運んで下さい」と

指示を出しました。

私は守衛のおじさんにお願いして二人でストレッチャーを押して、病院に搬送しました。

仕事が終わり、面会に伺うと、私の手を握って「柴田くん、連れて帰ってくれ」とおっしゃるのです。

「一介の寮母にはそんなことできません。許してください」、そう言いながら病室を後にしました。

毎日面会に伺いました。日に日に管が増えていき、ある日、たった一人、広い病室で旅立っていかれました。

この後、私は「人のために生きるのだろう」と深く悩みました。

そんなときは、私は、マザー・テレサのこの言葉に出会いました。

 

「人生のたとえ99%が不幸だったとしても、最後の1%が幸せならば、その人生は幸せなものに変わる」

 

この言葉に私の人生を賭けてみよう、そう決めて医療のない場所に行こうと決心しました。

15年前、私が選んだところは島根県にある人口600人の離島、知夫里島でした。

そこは診療所一つ、医師一人。でも時々無医村になる、そんな島でした。

私はその島で「医療が無くてもこの島で死にたい。柴田さんの腕の中で死にたい」、そう言う方々をお預かりして

看取りをしようと決心しました。私の場合、最後が近づくと、お医者さんたちが部屋を出られた後、親族だけで

お別れをします。

そして抱いて腕の中で看取るのです。

人生最後に「ありがとう」といってこの世を去る。逝くものにも、送る者にも大きな愛が与えられる尊い瞬間です。

これこそが私が求めていた瞬間です。これこそが私が求めていた看取りであり、私が探していた人間らしい死なのです。

 

 

(みやざき中央新聞掲載 鹿児島市で開催された「鹿児島県介護福祉会講演会」より)

講演者:一般社団法人「なごみの里」代表理事 柴田久美子

 

 

 

2017.05.01

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